昔を語る歳になりました。

懐古趣味の自分語り

なぜSFは衰退したのか、あるいは、SF警察は、なんでSF警察行為をやめられないのか?

SFマニアが流行ってるオタクコンテンツに特攻して噛みつくたびに炎上するネット世界。僕ら世代には「またかよ!」って感じなんですが、世代交代による認識の変化で、SF警察がなにに怒ってるのか?  とか、あれもこれもSFなのに、なんでSF衰退とか言っちゃってんのか?

とか理解不能に陥ってる方も続出している模様。


そんなわけで、過去を知る者として、ちょっとまとめてみました。

おおむね私怨がたっぷりの回顧録みたいなもんです。

ただ、だいぶ背景をさっぴいてます。

受験戦争の加熱とから、今よりさらにひどい男性中心主義社会である昭和日本での負け組男子化への怯えとか。



今でもその名残はありますが、かつて、オタクというものはヒエラルキーによる特権意識を良しとする人の集まりでした。

全員ではないとは思うけど、なんかそう言う感じのが台頭してました。

『オタクの教養』をたっぷり学んだオタクエリートがクールで良しとされたのですが、これもまた、今でもその名残はあります。

クールジャパンとかが、その流れですね。

オタクエリート』というものは、どういうものか?

どこの誰とは言わねぇでおいてやりますが、京アニ事件の時に、どっかの大学教授が書いた懐古エッセイみたいな記事。

今時の人たちからは謎扱いされてましたが、あれが、あの世代の『オタクエリート』意識のあらわれです。

彼だけの特殊な思想ではないことは「記事の内容には賛同できる」とか言ってる人が、ちらほらいたことから分かりますね?

では、彼らが『オタクの教養』とはなにか?

まあ、かいつまんで言うとウンチクです。

今でも名残はありますね?


ところで

オタクエリート

この定義には、ちょっと複雑な背景があります。

政治家ですらオタクに媚びる今では、下手したら生死に関わることだとまでは信じられないかもしれませんが、昔は、オタクであること自体が恥でした。

今でも自嘲ネタではあるし、からかわれることもあるとは思いますが、かつて、「オタク」と呼ばれることは、社会的死や、学校や家庭でイジメの対象になることを意味したのです。

ググれば怨嗟の声で溢れているとは思うので割愛しますが、オウム事件や宮崎事件は「オタク」を犯罪者予備軍として世間に認知させる結果を生みました。

当時のオタク的趣味を持つ人たちは、自分はオタクではないことを証明するのに躍起になっていました。

あるいはオタクではない人のフリをして、その行為を自嘲気味に「擬態」などと呼んでおりました。

今でも名残はありますが、生活や生死が関わってるので真剣度が段違いです。

誰だってキモがられたくはありません。

あいつはダメだと笑われたくもありません。

そこで『教養』の出番です。



オタクにとっての『教養』とは、自分が頭のいい人間であること、社会にとって有益な優れた人間であること、犯罪者予備軍=オタク以外のなにかであること、それを証明するためのものでした。

ですが、オタクはやはりオタクです。

一般人やご家族の皆様から見れば

「いやお前どう見てもオタクっしょー(ワラ)」

と言う事にしかなりえず、オタクであることを認めるか、認めなくても勝手にレッテル貼りさせられました。

「オタク」はレッテルだったのです。

しかしながら、そうすると犯罪者予備軍の一員にさせられてしまいます。

自分がオタクであることを認めながら、『ただのオタク』以上の上位の存在である事を示す概念を必要としました。

それが、『オタクエリート』です。



上位の階層と言うのは、下位の階層がないと存在しえません。

世間ではいっしょくたにされる『オタク』カテゴリー内での優位的立場を築きたいオタクエリートにとって、自分を相対的に上位に位置付けてくれる下位の『オタク』たち、それは「フィギュア萌え族」とすら揶揄された二次元美少女オタクでした。

……今でも名残はありますね?

誰とは言わないがと言うよりも、京アニ事件の記事でアニを持ち上げる時に使うのは

『萌え』ではないこと。

公開されるアニメ映画が、より格上なものである条件は

『萌え』でないこと。

上にいると自認する人たちの標的はいつでも『萌え』ですよね。


そして、そんな知能の少なそうな動物的オタクたちを堂々と見下し、自分はあいつらとは違うと胸を張りたいオタクエリートのための教養のひとつが


正確な科学知識に基づく

ハードSF小説知識


だったのです。

なにしろ動機がそれですから、あちこち弱そうな敵を見つけては出張って「批評」したりweb日記に書いたり、得意げにウンチクを吹聴しまくり、相手や相手の趣味を貶して、論破論破とサディスティックな優越感に浸る日々を送ることになります。

やがてハードSFは衰退し、論拠としているものの権威が失墜してしまいますが、それでもやることは同じでした。

そうでしょう、そうでしょう。

だって、それしかやったことないんですから。


いい迷惑なのが、ただのSF小説好きや、そんな歪んだ時代を知らない新しい読者です。

彼らは

「今でもSFはたくさんあるじゃないか。

  あれもあれもSFだ。

  日本はSFであふれていて、SFは衰退なんかしていない」

と言います。


残念。

彼らのような、いわゆるSF警察の人にとって

あなたの言ってるそれらはSFではありません。

なにしろハードSF信者にとっては


『フィリップ・K・デイックはSFではない』


のですよ。創元やハヤカワから出ていて、各種映画化されている大家のディックはSFには入らないのです。

彼らの概念では、SFにはなんか厳格な作法があり、その作法を守るものだけがSFなのです。

どんな作法かって?

……知るか!

ひとつは『科学知識が正しいこと』ってのは分かるんだけど。



彼らSF警察が、ことあるごとにグチグチと高圧的かつ上から目線どウンチクを語っては、嫌われまくってるのは見ての通りです。

SF衰退はSF警察のせいじゃない」、それは、あるいはその通りかもしれません。

しかしまあ、そのSF警察が、現在進行形で「彼らが信奉するSF」の衰退や、「正しい科学知識」への嫌悪を植えつける大きな要因になっているのは、その嫌われっぷりを見れば一目瞭然です。


……とは言え、です。

こうした傾向はSFに限ったことではないし、僕も似たようなことを、やっちゃうことがある気もしなくもなくなくない。

やはり、言動や態度には気をつけたいものですね。